般若心経の意味

カテゴリー つれづれ

摩訶般若波羅蜜多心経

偉大なる知恵の完成の心髄が説かれたお経

このお経のタイトルにはお経の全文が凝集されています。

「智慧によって、煩悩に溢れたこの世界を離れて、悟りの彼岸に到る核心にふれたお経」という意味です。

「摩訶」は「立派な」「偉大な」という意味です。

「般若」は智慧です。

「波羅蜜多」はインドのお経の言葉として用いられたサンスクリット語「パーラミター」の音をそのまま漢字に写したもので、その意味は二通りに解釈されています。

ひとつは「彼岸に到ること」という意味で、「多」を略すこともあります。こちらの訳の方が一般的です。

もう一つは「完成」という意味で、この解釈にしたがえば、「智慧の完成についていちばん大切なお経」となります。

般若心経は最後に呪文、すなわち真言でしめくくられますので、「心経」は「真言を説いたお経」とも解釈されます。

観自在菩薩行深般若波羅蜜時。

観自在菩薩が、智慧によって、煩悩にあふれたこの世界を離れて、悟りの彼岸に致る修行を実践された時、

観自在菩薩: 世間の多くの人(衆生)から観られつつ、多くの人を観、そして救う働きが自由自在である求道者

観世音菩薩・観音と言語は同じで、サンスクリット語の「アヴァロキテーシュヴァラ」で、玄奘三蔵は観自在菩薩と訳しました。

観音さまは、そのみ名を唱えれば、救いを求める衆生の姿に変身してお救いくださる菩薩で、33通りに姿を変えてあらわれることから、観音霊場は33か所になっています。百観音は西国・坂東・秩父を合わせていいますが、100の数合わせで秩父観音霊場だけは34か所になっています。

菩薩は、仏になることを目指して修行している姿をあらわしています。悟りを成就すると「仏」となります。

行深とは「実践する」という意味です。

その実践方法は「六波羅蜜・六度万行」といいます。

(1) 施しをし、自分にしてほしいことを進んで人にする(布施)

(2) 悪いことをしないで善いことをし、戒めを守る(持戒)

(3) 不平不満をいわずに我慢をする(忍辱)

(4) 心の静けさを失わない(禅定)

(5) 努力して勤め励む(精進)

(6) ありのままの真実の姿を見つめる(智慧)

の、六つの行をおこなうことをいいます。この行は菩薩行ともいいます。菩薩は仏の前段階の位です。悟りの彼岸に到る修行とは、仏になるための行なのです。

照見五蘊皆空。

五蘊はすべて空であると見極められて、

照見: 見極める

五蘊: 色(物質的現象)と受想行識(精神作用)の5つによって一切の存在が構成されているという古代インドの思想

五蘊は五つの集まりをいい、

(1) 色蘊(肉体、物質など目に見える形あるもの)

(2) 受蘊(感受作用)

(3) 想蘊(知覚作用)

(4) 行蘊(意志作用)

(5) 識蘊(認識作用)です。

人間についていえば、色蘊は目に見える身体、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は身体のなかにあって心の作用ということになります。これらは皆空であると説いています。

空: 何もない状態。ゼロ。物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性としては捉えるべきものがない。無常。

「空」の原語はシューニャで、インド数学で0の発見に展開したといわれています。

空は空っぽという意味ではありません。

あらゆる事物は実体がなく、すべては変化し、流動的であるから、あらゆることにこだわってなはらない、と説いています。

度一切苦厄。

一切の苦厄を度したまえり。

度: 超えること

インドの原文には相当する句がないそうです。

しかし、この句によって、お経の目的がより明確になっています。仏教の目的は、苦からの脱出にあるからです。

苦厄: 苦しみ、災厄

一切の苦厄については、身体的なものと精神的なものとがあります。

前者を仏教では「四苦」といいます。四苦とは

(1) 生きる苦しみ

(2) 老いる苦しみ

(3) 病む苦しみ

(4) 死ぬ苦しみ

で、生苦・労苦・病苦・死苦と表現しています。この四苦に、

(5) 愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)

(6) 怨憎会苦(嫌な人と会わなければならない苦しみ)

(7) 求不得苦(欲しいと求めても得られない苦しみ)

(8) 五蘊盛苦(心身が盛んで煩悩に悩まされる苦しみ)

の四苦を加えて「四苦八苦」と呼ばれています。

舎利子。

舎利子よ、

舎利子: シャーリプトラ。舎利弗(しゃりほつ) 。釈尊の高弟子の一人。知恵第一と言われた。

「般若心経」は観音さまの説く難解な教えを、舎利子が聴聞する形をとっているのだそうです。

舎利子は僧侶階級のバラモンの出身で、智慧の第一の弟子として、お釈迦さまの実子、羅睺羅(ラゴラ)の後見人になったほどの信任厚き弟子でした。

舎利子はマガタ国のラージャグリハ(王舎城)の近村に生まれ、隣村の親友、目連とともに懐疑論者サンジャヤの弟子となった後、250人の弟子を引き連れて目連とともに集団改宗しました。


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色不異空。空不異色。

色は空に異ならず。空は色に異ならず。

色: 物質的現象として存在するもののこと。「形あるもの」

「色」は目に見えるもの、形あるもの、物質、身体などをいい、これらは皆空であると説いています。あらゆる事物は、実体がなく、すべては変化し、流動的であるから、こだわってはいけないと教えています。

私たちは今、現世に生きていますが、いつかは病に倒れたり、寿命が尽きれば死んでゆく定めです。「五蘊化和合」といって、私たちの心身は縁によって五蘊が仮に集まっている存在ですから、縁尽きればそれぞれ離散することになるのです。

色即是空。空即是色。

色は即ちこれ空、空は即ちこれ色。

「般若心経」のなかでもっともよく知られた一句であり、この経のいわんとするところを端的に示した一句です。

前の一句「色は空に異ならず。空は色に異ならず」と言い換えただけで、意味は同じです。

受想行識亦復如是。

受想行識もまたかくのごとし。

受: 感覚。感受するから「受」といわれる。何を感受するのかというと、楽を感受し、苦を感受し、不苦不楽を感受するのである。

想: 「表象」と訳されているが、私はここは「想い」と捉えている。「感情」に近い感覚。

行: 意志。精神的な働きが一定の方向に動いていくことを指す。

識: 知識。眼・耳・鼻・舌・身・意という6種の認識作用が、形、声、香、味、触れられるもの、心の対象という6種の対象を認識する働き。

ここでは、心もまた実体のないものだと説いています。

舎利子。

舎利子よ。


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是諸法空相。

この世においては、すべての存在するものは無常であるということわりがある。

不生不滅。不垢不浄。不増不減。

生せず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。

現象界で生起する(1)(2)生滅、(3)(4)垢浄、(5)(6)増減は、「六不」といって、実体がないものとしてすべて否定されます。

(1)(2)生・滅は客観的に判断されますが、(3)(4)きれい・汚いは主観的であり、(5)(6)増減は相対的なものです。このことから、ここではこの三つの面から六つの判断が否定され、「空の六相」といわれています。

是故空中。無色。無受想行識。

この故に空の中にあっては、 物質的現象もなく、受想行識もなく、

空の立場に立ってみれば、物質的な存在にはとらわれなくなるというのです。

仏教では「二諦」を説きます。

(1) 世俗諦、(2)言説諦といって、私たちは世間に存在するものに対して言葉で説明して、肯定的な立場をとり、それに執着します。

ところが、空の立場は勝義諦・第一義諦といって、言葉や論理を超えた絶対的立場に立ち、「不」とか「無」という表現を用いて、世間的なことがらに否定的な立場をとり、なにごとにもとらわれてはならないことを説いています。

「般若心経」はキーワードである「空」を、あらゆる角度から繰りかえし説いていくのが特徴になっています。

「色」に続いて「受・想・行・識」はそれぞれ心の働きをいいますから、空の立場からは、実体のない私たちの心の動きにもとらわれてはならない、ということを説いています。

心は絶えず変化するものですから、ものごとに一喜一憂するのは、実体がないものに振りまわされていることになるのです。

無眼耳鼻舌身意。

眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、

眼・耳・鼻・舌・身・意は、「感覚器官」を意味する「根」をつけて、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根とし、あわせて「六根」といいます。

富士登山の際に、「六根清浄」と唱えながら金剛杖をついて登ることはよく知られていますが、それは身心ともに清らかになることを願ってのことで、登山がそのまま行として位置づけられているのです。

ここでは、空の立場に立って、感覚や認識のとりこになってはならない、と説いています。

無色聲香味觸法。

眼で認識すべき物質的現象もなく、耳で聞くべき声もなく、鼻で嗅ぐべき香りもなく、舌で味わうべき味もなく、身体で感じるべき触れられるものもなく、心の対象であることわりもない。

眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つの感覚器官のそれぞれに対応するのが、

(1) 色(眼に映るいろいろな姿・形・色・ありさま)

(2) 声(耳に聞こえてくる声や音)

(3) 香(鼻で感ずる香りや匂い)

(4) 味(舌であじわう味)

(5) 蝕(身体や皮膚で感ずる飢え・渇き・寒さ・暖かさや、対象物の堅さ・湿り気・暖かさ・重さ・動きなど)

(6) 法(心の対象である精神世界)

です。

これらの六根が扱う「対象」に、境(「対象」という意味)の字をつけて、色境・声境・香境・味境・蝕境・法境といい、あわせて「六境」といいます。これら六境も空の究極的な境地に立って、とらわれてはならないのです。

無眼界。乃至無意識界。

眼界もなく、乃至、意識界もなし。

「眼・耳・鼻・舌・身・意」を意味する六根、「色・声・香・味・触・法」を意味する六境、この六根と六境を合わせて「十二処」といいます。

これらの認識作用は「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 」といわれ、六識と呼ばれます。

六根と六境をあわせて「十二処」、さらに六識を加えたそれぞれで繰り広げられる世界や境地を「界」といいます。

これを「十八界」といって、伝統的な仏教認識論の体系を構築しています。

つまり十八界とは、「眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界」をいいます。

「無眼界乃至無意識界」とは、眼界から意識界までの十八界すべてがない、という意味になります。

「乃至」は現在では「or」の意味で使用されることが多いが、ここでは「from … to …」の意となる。つまりここでは、十二処のうち最初の「眼界」と最後の「意識界」についてのみ言及されているが、「眼界」から「意識界」までのすべてがない、ということを述べています。次項に出てくる「乃至」も同様です。

原始仏教以来の仏教認識論は、まず基底に五蘊があり、五蘊を用いて六根・六境、すなわち十二処が生じ、さらに十二処を用いて人間がものを認識する十八界が開かれてくるとしています。しかし「般若心経」では、すべてを実体のないものとして固定的判断にとらわれるなというのです。

無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無無老死盡。

無明もなく、また、無明の尽きることもなし。乃至、老いも死もなく、また、老いと死のつきることもなし。

ここでは下記の「十二因縁」を述べています。

  1.  無明: 過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知。
  2.  行: 過去世の無明によって作る善悪の行業
  3.  識: 過去世の業によって受けた現世の受胎の一念
  4.  名色: 胎中における心と体
  5.  六入: 胎内で整う眼などの五根と意根
  6.  触: 出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある
  7.  受: 苦・楽・不苦・不楽、好悪を感受する感覚
  8.  愛: 苦を避け常に楽を追求する根本欲望
  9.  取: 自己の欲するものに執着する働き
  10.  有: 愛取によって種々の業を作り、未来の結果を引き起こす働き
  11.  生
  12.  老死

十二因縁とは、上記の過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触・受)、現在の因(愛・取・有)と未来の果(生・老死)という人生の苦しみの二重の因果を示すものです。

①無明(迷い)=>②行(迷いが織りなす行動)=>③識(行によって活動し始める認識)=>④名色(名称と形態)=>⑤六入(六根など外界の認識が入ってくるところ)=>⑥触(接触)=>⑦受(感受)=>⑧愛(欲望)=>⑨取(執着)=>⑩有(う)(生存)=>⑪生(しょう)(うまれること)=>⑫老死(老い死んでいくこと)。

ここでは、十二因縁はなく、またそれらが尽きることもない、と言っています。

例えば「無明」は、「十二因縁」の最初に出てくる言葉で、反対の言葉は「明」で「明るい」を意味し、智慧・悟りをあらわしますから、「無明」とは無知・迷いのことになります。仏教では迷いこそがすべての根本であると説き、根本無明といいます。

「無明」とは迷いですから、無明が尽きるということは、迷いがなくなった「明」の状態、すなわち悟りをあらわしています。ですから「迷いもなければ悟りもない」という意味になります。

迷いが否定されるのはわかりますが、どうして悟りまで否定されているのでしょう。

「悟り」とは物事を「明らめる(あきらめる)」という意味で、これにより明らかにすることを意味しています。仏教でよく使われる「諦」とは諦める=明らめるということで、真理をあらわすことばなのです。

例えば翌朝仕事の関係で早起きしなければならないとき、「眠ろう眠ろう」焦るほど眠れなくなってしまいますね。同じように、「悟とう悟ろう」とすればするほど、悟りは遠のいていってしまいます。

迷いとか悟りに振りまわされない。すなわち、こだわってはならないというのです。

無苦集滅道。

苦も集も滅も道もなく、

苦・集・滅・道は、仏陀の教義の根本の4つの真理として四諦または四聖諦(ししょうたい)といいます。

苦諦: 人生は生老病死の四苦、更にこれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えた八苦に満ちているという真理。

集諦(じったい): 迷いによる業が集まって、これらの苦の原因となっているという真理。

滅諦: 迷いを断ち尽くした永遠な平安の境地が理想であるという真理。

道諦: 理想に達するためには道に因ることが必要であるとして「八正道」(①正見=正しく見る、②正思惟=正しく考える、③正語=正しい言葉を使う、④正業=正しい行いをする、⑤正命=正しい生活をする、⑥正精進=正しいところへ向かって努力をする、⑦正念=正しい信念を持つ、⑧正定=心をしずめて一つに集中する)等を実践すべきであるという真理。

悩みに満ちた日常生活の中で、人生を苦と見きわめ、その原因である煩悩をなくしさえすれば、やすらぎの世界にはいることができるというのは、お釈迦さまが最初に説かれたきわめて合理的な教えです。

しかし、日常生活を離れ超えて、なにものにもとらわれない空の究極的立場に立てば、その中には四諦さえもないというのです。

無智亦無得。

知ることもなく、また得ることもなし。

「智」とは智慧のことで、「得」とは所得(有所得(うしょとく))と同じ意味です。

所得は、一般には収入とか収益とかなどの意味に使われていますが、仏教では認識にかかわる言葉として用いられ、ものにこだわる、執着することをあらわす言葉として用いられています。

ここにいう「智もなく」の文は、智慧をまったく否定しているのではありません。空を悟るためには、智慧を働かさなければならないからです。

この一文は「空の中には(是故空中)」の文にかかっています。

「空」の立場に立てば、智者ぶることもなく、ただ仏の道を学ぶという喜びに浸れるのであって、ものにとらわれることもなくなってしまうというのです。

以無所得故。

得るところなきを以て故に。

ここまで、「『空』の立場に立てば、私たちの目に見える物質や、目には見えない心の働き、感覚やものの認識は実体のないものである。迷いと悟りも、老い死ぬことやその苦しみを味わうこともなく、人生が苦であり、その原因である煩悩を滅するための四諦八正道の教えも超えてしまう。悟ろうとする思いも一つの迷いであるので、すべてのものから超越する『空』の中にはそれさえもないのだ」と述べられてきました。

それはなぜかといえば、「無所得」であるからだ、というのです。反対意味の「所得」とは知覚をいい、知覚するもの(主体)は知覚されるもの(客体)を取捨選択しますから、選択した対象にとらわれてしまいます。ところが、無所得は「空」の真理を体現していますから、何にもとらわれることはないのです。

ここから「般若心経」は、「空」の核心についての論述から一歩進めて、「智慧によって煩悩に満ち溢れたこの世界を離れて彼岸に到る」行の実践によって得られる功徳について、いよいよ触れていくことになります。


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菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。

菩提薩埵は、知恵の完成に依るが故に、

「菩提薩埵」はサンスクリット語「ボーディサットヴァ」の音をそのまま写したもので、これを省略した形が「菩薩」です。ボーディは「悟り」、サットヴァは「人」ですから、「悟りを求める人」の意で、求道者とも訳されます。

大乗仏教の菩薩は、単に求道者であるだけではありません。一人でも救われない人があるならば、誓って仏にはならないと誓願を立てて、救済者として人々の前に現れます。みずから悟りを求める求道者であるとともに、悩める衆生を救わずにはおれない救済者の両面をもっている、仏の前身であり、また仏の後継者なのです。

心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。

心を覆うものがない。心を覆うものがないが故に、恐怖あることなし。

「罣」はかける・かかる、「礙」は妨げるという意味です。

「罣礙」のサンスクリット語は「チッタ・アーヴァラナ」で、「アーヴァラナ」は覆うものという意味で、「チッタ」は心をあらわしますから、「心を覆うもの」、漢語では「妨げるもの」という意味の言葉をあてたことになります。

ここでの意味は「無」という否定語が加わるので、「心に妨げるものがない」ということになります。

心を妨げるものとしては、さまざまに説かれていますが、たとえば「八風」があります。「八風」とは人の心を動揺させる8種の状態を風にたとえたもので、利(経済的利益)、衰(経済的損失)、毀(けなされること)、誉(名誉)、称(ほめられること)、譏(そしられること)、苦、楽をいいます。

「心を覆うものがない」とは、迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがない、まさに心の自由、という意味です。

遠離一切顛倒夢想。

一切の顛倒夢想を遠く離れて、

顛倒夢想: 正しくものを見ることができない迷い。誤った正しくない妄想。

「顛倒」とはものごとを逆さまにとらえることです。「本末顛倒」という言葉がありますが、根幹の大切なことととるにたらない枝葉末節とを取り違えてしまうという意味です。

「夢想」とは、夢のようにとりとめのない想像を心の中に描くことで、一言でいうと妄想です。

「遠離」するとは、文字通り遠く離れることです。

以上のことから、「物事を曲げてとらえることなく、妄想に惑わされることなく、智慧の眼をもって正しく物事をみきわめることができる」という意味になるのです。

究竟涅槃。

涅槃の境地をきわめ給う。

究竟: サンスクリット語「ニシュタ」の漢訳語で、究極の、究め尽くすという意味。形容詞としても動詞としても用いられる。形容詞として用いれば「究極の涅槃に入る」と読むことになるが、ここでは般若心経では一般的な動詞として読む。

涅槃: サンスクリット語「ニルヴァーナ」の音を漢字に写したもの 一切の迷いから脱した境地。

ここでの文の意味は「妄想に惑わされることなく、智慧の眼をもって正しく、物事をみきわめることができるので」の前文を受けて、「涅槃のやすらぎの境地に入ることができる」となります。

三世諸仏依般若波羅蜜多故。

三世諸仏は知恵の完成に依るが故に、

三世諸仏: 過去、現在、未来にまします無数に多くの仏たち

「三世」とは過去、現在、未来のことをいいます。

仏教では時間そのものには実体がなく、実存するものとはみなさないで、変化し移ろいゆく存在の上に過去、現在、未来と三つの区別を仮に立てるにすぎません。

私たちが生まれる以前の生涯を前世、現在の生涯を現世、死後の生涯を来世とよんで「三世」ということもあります。

悟っていない人が仏になるために修業しつづけるのではなく、悟りを得ている三世の仏たちもまた、仏の国に生まれる修業の実践をしているということなのです。

悟りは決して固定した状態ではないので、たとえ仏であっても絶えず修行しつづけなければならないものなのです。

得阿耨多羅三藐三菩提。

阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

阿耨多羅三藐三菩提: この上もない、正しく平等な目覚め。完全な悟り。仏の覚り。阿耨多羅は「アヌッタラー」の音写で、アヌは「ない」、ウッタラーは「上」なので「この上ない」、すなわち無上という意味。三藐は「正しい」という「サミャック」の音写で、中国の仏教者は正等と訳した。三菩提は「サムボーディ」で、サムは「完全な」、ボーディは「覚り(さとり)」という意味。

仏教では「阿耨多羅三藐三菩提」は「無上正等覚」と訳され、「この上なく、正しい完全な悟り」という意味です。

仏たちは智慧の行を不断に続けているので、時間やその時々の条件に左右されない、不変の悟りを得ることができるのです。

こだわりを拭い去り、心の智慧の眼を見開いて、真実の姿を見ようと説く「般若心経」は、いよいよ結論部分に入ってきます。

 


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故知般若波羅蜜多。是大神咒。

故に知るべし、般若波羅蜜多は、これ大いなる不思議な霊力のある真言であり、

咒: 真言

原語のサンスクリット語「マハー・マントラ」を直訳すると、マハーは「大きい」、マントラは「真言」で、「偉大なる真言」となります。

翻訳の際に玄奘三蔵が、中国では霊とか心の働きなどの神聖なものに付せられる「神」を付け加えたもので、「偉大にして神聖なる真言」という意味になります。

マントラは「咒」ないし「呪」と訳されましたが、呪い・呪文・呪術とは異なります。マントラは仏教以前からインド・アーリア人の最古の宗教聖典「ヴェーダ」にあって神々への賛歌・祭詞・歌詠の総称で、のちに仏教に導入されて霊威ある神聖なる言葉として高い価値が加わったものなのです。

是大明咒。是無上咒。是無等等咒。

これ大いなる悟りの真言であり、これ無上の真言であり、これ無比の真言である。

「是大明咒」の「明」は「無明」に対する言葉で、文字通り、明るい、ものがよく見えることを意味し、無知・迷いを意味する「無明」に対して智慧・悟りをあらわします。

智慧の光がさまよえる私たちを照らして、真実を覆い隠している迷いの雲を取り払ってくれるように、「是大明咒」の意味は、「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大明咒なり」となるのです。

闇路を照らす一筋の光明、なにものをも焼きつくす火や火炎は、しばしば仏や仏の救済力の象徴として用いられています。

「是無上咒」の意味は、この上なきすぐれた真言である、というものです。

仏教は、言葉や文字で示され伝えられる顕教の教えと、もっとも深遠な境地に達した者にしか窺い知ることができない秘密の教えという密教とに分類されています。

「般若心経」は4種類の真言を説きますが、弘法大師はその著「秘鍵」で①大神咒は声聞(人の話を聞いて悟る者)の真言、②大明咒は縁覚(師につかずに一人で悟る者)の真言、③無上咒は大乗の真言、④無等等咒は密教の無比の真言であると述べています。①~③が顕教、④が密教ということになります。

このように、「般若心経」は顕教と密教の両方の教えを説いているがために、広く一般に信奉されてきたものと言われています。

「是無等等咒」の意味は、般若波羅蜜多は比類なき最上の真言であるというものです。それは、上記の弘法大師の「秘鍵」によれば密教の真言であるからということになります。

能除一切苦。

能く一切の苦を除き、

この経のはじめに、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」、すなわち「観音さまは般若波羅蜜多を行じ、目に見えるもの、見えないものすべては空であると見極められるや、一切の苦から解放された」とありました。

そして「舎利子よ」と問いかけられ、人間が観音さまのように苦から脱するにはどうしたらよいか、について細かく述べられ、般若波羅蜜多とは真言であって、これを唱えればよく一切の苦を除くことができると、結ばれたのです。

一番始末の悪いものは、生半可な知識をもったものとされています。小賢しい知識がかえって真実をみる眼を曇らせてしまうことがあるからです。この真言を信じ、唱えて苦厄を取り除きなさいというのです。

眞實不虚。

真実にして虚しからず。

前に述べた「般若波羅蜜多は真言で、これを唱えれば、よく一切の苦を取り除くことができる」というのは、真実で、偽りのない確かなものだという意味です。

現実世界の私たちの生活は、目に見えるものはもちろんのこと、見えないものにもがんじがらめに縛られているのが実態です。時間に追われ、世間の習俗・習慣にこだわり、煩瑣な人間関係に縛られています。

祈りである真言を心から念ずれば、一切の苦から解放されると説いています。

故説般若波羅蜜多咒。

故に般若波羅蜜多の真言を説く。

般若波羅蜜多はすぐれた真言であるから、その咒を説こうというのです。

即説咒曰。

すなわち真言を説いて曰く、

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に完全に行ける者よ、悟りよ、幸いあれ。

この掲諦掲諦から菩提薩婆訶までの18字は、この経の締めくくりとして説かれる咒=真言です。漢字そのものに意味があるのではなく、サンスクリット語の音をそのまま写したものです。

「掲諦」の語は4回繰り返されますが、いずれも呼びかけの言葉です。

「掲帝」は「ガター」=「往ける者」の呼びかけの言葉です。「波羅掲帝」の句の前に「掲諦掲諦」とありますから、「往ける者よ、往ける者よ」の呼びかけに続いて、「彼岸に往ける者よ」とさらに呼びかけている句になります。

「波羅僧掲帝」は、サンスクリット語「パーラサンガテー」の音をそのまま写したものです。「パーラ」は波羅蜜多の原語「パーラミター」によります。「サンガテー」の「サン」は「完全に」を意味し、この文意は「彼岸に全く往ける者よ」となります。

「彼岸」は理想の世界であり、悟りの世界であり、仏の世界です。それに対して「此岸」は私たちが住んでいる現実の世界であり、迷いとこだわりの世界です。

煩悩にさいなまれる此岸を離れて、悟りの彼岸に渡れ、と繰り返し呼びかけを行っているのです。

「菩提薩婆訶」は、サンスクリット語「ボーディスヴァーハー」の音をそのまま写したものです。

「ボーディ」は「悟り」を意味し、彼岸のことを指しています。

「スヴァーハー」は祈りの成就を願って最後を締めくくることばです。インドでは真言を唱えながら神々に供物を捧げるときに、最後の締めのことばとして用いられる定形句となっています。

ここでの文意は「悟りよ、幸いあれ」となります。

すなわち「般若心経」を締めくくる真言は次のようになります。

「行こう! 行こう! 煩悩にさいなまれる此岸を離れて、なにものにもとらわれない、悟りの世界へ! すばらしい仏のみ国へ! 悟りよ、幸いあれ!」

般若心経。

文意は「以上をもって般若心経を終える」となります。

仏教経典ばかりではなくインドの書物はすべて、最後に題名をふたたび言って終わるのが伝統的な文体なのです。

参考:
「般若心経・根業般若経」中村元・紀野一義訳注(岩波文庫)
「古寺をゆく」(小学館ウィークリー)より藤井正雄解説

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